暁光

まだ完全に日は落ちていないというものの、秋も半ばの風は冷たい。
石造りの塔に穿たれた窓の縁に手をかければ、ひた、とその冷ややかで無機質な感触が伝わり、なぜか違和感を憶えるのだった。
そこから出来る限り身を乗り出すと、風は更に容赦なく、彼の滑らかな頬をなぶって通り過ぎてゆく。
冷え切った心を芯まで凍りつかせて、もう二度と融けることのない氷壁に封じ込めてしまうかのように。
だが彼はまったく気に留める様子もなく、眼下に広がる景色全てをその瞳に収めようとでもするかのように、ただ、ぼんやりと中空を見つめていた。
黒々と広がる森、そしてそれを裂き流れ続ける大河。
夕日に淡く染められた空は、間もなく宵の紫紺へとかわることだろう。

薄紫の中空に、ゆっくりと手を伸ばして、空をつかむ。
しっかり握りしめていても、その手には何一つ残りはしない。
それと同じこと、しっかりと掴んでおいたつもりの想いでさえ、やがて色褪せ、消えてしまう。

暫し凪いでいた風が、再び勢いをまして吹きつける。
眼下の木々が葉を散らし、哀しげにざわめく。

次第に空が、光と、そして色彩を失ってゆく。
全てが色褪せてしまえばいい、空っぽの手を開いて、そう思った。

*

「どうした」
「何でもないよ。ただ何となく、空を見に来ただけなんだ」
いつのまにか紫紺一色で覆われた空を眺めながら、クレティアンはぼんやりと答えた。
今夜は星も出ていない、見えるのは月だけだ。
それも、満月に僅か満たない、どこか茫洋とした表情の。
「美しいな」
ローファルはクレティアンがしているように、窓の縁に片手をつくと、もう一方でフードをはらった。
元々色素の薄い短髪が、月光をはじき、淡く銀色に輝いて見える。
「…どうして、ここに?」

飛び降りること位にしか使い道のない、この離塔に。
そう考えてから、どうして自分もこの場所にいるのだろうとクレティアンは逡巡した。
もしかしたら、本当に飛び降りるためだったのかもしれない。
誰かが、私を呼ぶのだなんて、そんな物語を期待するわけではないけれど。

「部屋にも、書庫にもいないからな。探したんだ」
随分手間取ったぞ、とぼやきながら不器用に微笑んで見せる。
その笑顔に、鈍い痛みにも似た感情がこみ上げてくる。
「何かあったの?」
貴方が私を探すだなんて、そう口にしかけて、ようやく思い出した。

「ああ、今日は…そうか…」
うわごとのように小さく呟いて、思わずよろめいたクレティアンの身体を、ローファルはそっと抱き留める。
クレティアンはそのまま縋り付くように、その胸に顔を埋めた。
「…イズルード…」
もう、二度と、呼ぶことはないと思っていた名前。
ふわりと微笑むその姿が、瞼に浮かび上がる。
「そんなに経つんだね…もう…」
虚ろな目を伏せ、呟く。
平静を保ったままの口調とは裏腹に、両手で自らを抱きしめる姿は、明らかに動揺しているということを示していた。
その姿にいたたまれなくなったのか、ローファルは背に回した腕に僅かに力を込め、抱き寄せる。
まるで壊れ物でも扱うかのように、そっと。
実際、その身体は驚くほど冷え切っていて、華奢な肩は今にも崩れ落ちてしまいそうに細かく震えていた。
宥めるように冷たい頬に唇を寄せる。
それに応えるように、クレティアンは白魚のような指で彼の髪を梳き、今にも消え入ってしまいそうな、吐息ともつかない声で囁く。
「ねぇ、壊れてしまえれば、どれ程楽なことだろう」

もしかしたら、私を壊して楽にしてやろうと、イズルードがここに呼んでくれたのかもしれない。

でも、私にはここから飛ぶ勇気なんてないよ。
ここからきみのもとへ翔ける階段は見えないし、そうでなくても私の足元に見えるのは闇ばかりだ。

心中で呼びかけて、目を伏せる。
クレティアンの脳裏にはたった今のことのように、一年前の光景が鮮明に蘇っていた。

*

「放して、放してよ!!」
灰色の石壁に、べっとりとこびりついた赤。
切り窓から細く差し込む柔らかな夕日に染められてなお、その情景はまざまざと現実を見せつける。
血の海の中に力無く投げ出された腕は、鮮やかな赤の中で際立って青白く見えた。
もがき続ける華奢な身体を閉じ込めるように、回した腕に一層力をこめた。
「…もう、手遅れだ」
クレティアンは戦慄く唇で必死に言葉を紡ごうとするが、発せられるのはひゅ、と掠れた吐息だけだった。
それを制してローファルは続ける。
幼い子をあやすような、それでいて有無を言わさぬ強さをもった声で。
「イズルードは、死んだんだ」
「死…んだ?」
途端、クレティアンはぴたりともがくのを止めた。
双眸が、ようやく血の海を映す。
そして血の海に横たわる、その姿を。
「イズルードが、死んだ…?」
必死に目を背けていても、容赦なく現実は押し寄せる。
イズルードの死、という現実が。
「ああ…っ」
全ての言葉が絶望に呑み込まれてしまい、小さな鳴咽をもらすことしかできなかった。
夕日が、全てを血で染めてしまったように見えた。

*

「…お願い、傍に行かせて」
「ああ」
何度もくずおれそうになる身体を支えてもらいながら、やっとの思いで僅か数歩の距離を進む。
もう、血の海に足を滑らせる心配もなければ、ローブの裾を気にする必要もなかった。
干上がった血の海に膝をつくと、そっ、とイズルードの頬に手を触れる。
そのまま長めの前髪をかきあげてやる。
露になった顔にうかんだ表情は、まるで眠り込んでしまっただけのように穏やかで、そして、綺麗だった。
実際、傷らしい傷はほとんど見受けられなかったし、この凄惨な状況には場違いでさえあった。
下腹部の、大きな裂傷を除いては。
おびただしい量の血はどうやら、全てそこから流れ出たようだった。
剣が裂いたのではない、千切られたのでもない、ただ、大きく傷だけが口を開けて、血を吐き出していた。
クレティアンはそっとその傷口に手を添えると、ゆっくりと手を滑らせた。
「…クレティアン…」
「いいんだ。私にはこんなことくらいしか出来ないけれど…」
傷痕は跡形もなく消え去り、ますます綺麗になった身体は、尚更場違いに見えた。
「…そんなことをしても、イズルードはもう」
クレティアンはその言葉を遮るように、目を瞑ってイズルードに口付けた。
もう夕日の紅い光さえ射さないというのに、奇妙に白々と映し出されたその姿に、ローファルは息を呑んだ。
「クレティアン!!」
クレティアンは満足げに唇を放すと、口角を伝う自らの唾液を拭った。
おもむろに立ち上がり、上目遣いでローファルを見やる。
「…何?」
少しの非難と純粋な好奇心の入り交じった視線を向けられ、思わずローファルは目を逸らした。
「今、何を…どういうつもりだ…」
「何…って?どういうこと?」
何も知らない、というような、そしてどこか人を食ったようなその微笑に、ローファルは何故か焦燥感を抱いた。
「っん…!」
衝動のままに口づけた、その唇からは仄かに生臭い味がした。
生臭く、そしてどこか鉄臭い…まるで、死者と口づけているようだった。

確かに、この血はイズルードの流した血なのだろう。
そして、その血はクレティアンという空っぽの器に注がれた…そう考えれば、腕の中の温もりも間違いなく死者だ。
虚ろにして生者の温もりを持った、生ける屍なのだ。

ようやく呼吸が開放されると、クレティアンは浅い息を数回繰り返した。
頬には僅かに朱がさし、赤い舌先で自らの唇を舐める。
クレティアンは満足げな表情で、ローファルに問いかけた。
「一体、私に何を求めるの?」
押し黙ってしまったローファルに嘲笑めいた笑みを向けると、クレティアンはその表情を崩さぬまま言った。
「こんな身体が欲しいなら、幾らでもあげるよ」
クレティアンは冷たい石柱に寄りかかると、誘うように再び唇を舐めた。
まったく感情の読めない笑みを浮かべて、囁く。
「きてよ」

だが、ローファルは何も答えることができなかった。
その煮え切らない態度に焦れたのか、クレティアンは先ほどローファルがしたように、今度は自ら口づけた。
それが合図だったかのように、ローファルも絡みついてくる熱い舌に応える。
もう歯止めなどきかなかった。
堰を切った欲望に任せてきつく抱き寄せると、クレティアンは先ほどと変わらぬ、満足げな表情を浮かべた。

その笑みは、壊れてしまうことをむしろ歓迎しているようにも見えた。

*

あの時から、私は壊れてしまっていたのかもしれない…消えかけている記憶を辿り、クレティアンはぼんやりとそう思った。
私だけではなく、ローファルも…私が、壊してしまった。
だからこそ、私も、ローファルも、今ここにいる。

髪を梳く手をとめ、首に回した腕をゆっくりと解く。
「ローファル…私達、何をすればよかったのかな」
イズルードのために。そして、私達が壊れてしまわないために。

びゅう、と一際強く風が吹きつけた。
冷え切った、刃のような突風が。

ローファルは焦げ茶色の瞳を眇めると、まるで感情のこもっていない声音で言った。
「遺志を、継いでやることだ。イズルードの想った理想を、ヴォルマルフ様と…」
「…もういいよ」
クレティアンはその言葉を遮って、吐き捨てるように言った。

日頃にない饒舌さを見せたところで、そんな言葉は嘘だとわかっていた。
イズルードを殺し、私達を壊した力が、そして今私達にある力が作り出す理想郷など。
「そんなもの、要らない」
乱暴にローファルの手を振り払うと、気がついたときには階段を駆け下りていた。
「クレティアン!」
細い吹き抜けを反響した声が降ってくる。
そして、思わず笑みがこぼれる程に慌しい足音。
「…悪かった」
力強い腕がクレティアンの肩を捉えた。
そして、あの日と同じように、荒々しく抱きとめる。
…額をつけた胸の温かさに、クレティアンは言葉を失ってしまう。
私は壊れてしまったけれど、私の帰る場所は壊れてしまわずに今も、ここにある…。

「わかっていたんだ、何もかもが嘘であったのは」
夢見ていた理想郷だけではなく、信じてきた世界、その全てが嘘であったと。
「私達は、ここに在ってはならないんだよね」
歌うように、悲しげに口ずさむ。
ローファルには言葉の裏にあるものまではわからなかったが、クレティアンの表情から全てを推し量って答えた。
「…そうだな」
時軸を枉げ、空間を枉げてまでして生に縋った、見苦しい亡霊に過ぎないのだから。
だが、かつては何をしても実現したい理想があった。何に代えても求めたものがあった。
その理想はイズルードの死によって崩壊した。
いや…、崩壊したのは、理想の幻影だ。もともと理想などありはしなかった。
嘘で作り上げられた幻影の崩壊は、まるで水門が決壊するようだ。
一点が崩れてしまえば、もう全てが崩れてしまうしかないのだ。
クレティアンは思わず笑みを浮かべた。
その笑みには間違いなく自嘲が含まれていることをローファルは悟った。
愚かな理想郷を信じたことか、それともイズルードを生かしてやれなかったことか、そのどちらをクレティアンが引きずっているのかまでは分からない。
ただ、どちらも手に負えることではなかった、だから自らを嘲る必要はない、だがそんな言葉をクレティアンが望んでいないのは知っていた。

重く長い、沈黙が流れた。

「往こうか、私たちの在るべき場所へ」
出し抜けに、今宵の月のように虚ろな口調でクレティアンは呟いた。
赤茶けた血色に淀んでいた瞳から、すっと光が引いた。
抜け殻のように、淡く、力を失った色。
クレティアンはその瞳と同じように、急速に身体から力が抜けてゆくのを感じた。
だが、もうそれに抗おうとは思わない。
在るべき場所に還る、ただその一念を胸に崩れるままに身を任せた。

ひた、と頬に冷え切った石床が触れる。
「冷たい…」
最後の最後に、ようやく凍てついた心が溶け始めた。
色彩を失っていた世界が鮮やかさを取り戻し、彼に微笑みかける。
「主よ…感謝します」
ローファルはそっとクレティアンを抱き上げると、かつてないほどにやさしく口付けた。
滑らかな頬を、一筋の雫が伝った。

再び、ゆっくりと階段を上る。
一段、また一段と。一歩ずつ、天に近づく。

「ローファル…」
力なく呼ぶ声に続く沈黙に呑み込まれた言葉は何であったのか。
過ちを止められなかった懺悔の言葉か、それとも感謝の言葉か。
ローファルは全てを知ったように、柔らかく微笑んだ。
最後の一段を上りきると、牙を剥く風を遮るものはもうなにもなかった。
だが、彼らは寧ろそれを歓迎しているかのように見えた。
最後の先にある、一段を昇る。

「「デジョン」」

二つの声が重なり、溶け合って一つになる。
錆色の雲に覆われた空を、風が裂いた。
赫々と燃える暁光が、天を焦がした。


C O M M E N T
私の書く話はやたらに心中ネタが多いです。
初めて書いた二次創作物のH×Hの話も心中ネタでした。
キルアさんがピカ子とゴン殺しちゃって自分も正気を棄てるという、そりゃあまあ暗いお話。根暗なのかな…。そうだな。

私のロークレ感はこんなのです。
決して純愛ではない、根底に流れるどろどろとしたものを共有した関係。
だからこそ、深く繋がっているという。

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