犠牲

冷たい雨が地下街を濡らす。
喧騒の中を、人々が通り過ぎてゆく。
何かに憑かれたように、必死に生きる人々が。

…だから、俺はこの街が大嫌いだった。

*

「んっ…あぁ…はぁ…っ」
噛み締めていた唇から、いつの間にか吐息が漏れる。
目の端で捉えた白衣の男は、満足そうに俺に微笑みかけた。

「こんなのじゃあ…足りないよねぇ、ブルー?ほら…」

男は慣れた手つきで再び手を動かした。
そのたび、湿った淫猥な音が俺の耳に突き刺さる。
強すぎる刺激と激しい羞恥心に、目がくらむ。

「や、やめっ…」
抵抗のために上げた声はろくな言葉にならず、振り挙げた手はやんわりと頭上に封じられる。
「やれやれ、まだ慣れないんだね…?」
唇の端を歪めた笑み。
その微笑を向けられるたび、俺の体は凍りついてしまう。
教え込まれた恐怖…そして、快楽が蘇るから。
「そう、いい子だ、ブルー。素直にしていれば、何も怖いことなんてないんだ」

口角から零れた唾液を指ですくってやってから、その男…ヌサカーンはまた、嫣然と微笑んだ。
「素直な君は、かわいいね。そう、君は余計なことなんて考えなくていいんだ」
崩れ去った故郷のことも、この手で殺めたただ一人の弟のことも。
そして宥めるように、ヌサカーンは言うのだ。
「…私が、忘れさせてあげるから」
細くすがめられた紫色の眼に灯る輝きに射られることはまるで、深く澄んだ、それでいて底のない沼を見つめているようだった。
このままその沼に深く深く沈んでしまえば、全てを忘れることができるのかもしれない。
「ヌサカーン…」
「大丈夫…すぐに、何も考えられなくなるよ」
私以外のことは、何も。
とろり、と蜜のように、彼の言葉は身体に染みる。
それに応えるように脚がぴくりと痙攣した。
ヌサカーンは目を細めて、片手は俺の両腕を縫いとめたまま、もう一方をその脚にかける。
「ほら、他のことなんか考えてる場合じゃあ、ないって」
直後に、体内に圧倒的な熱を感じる。
いつの間にか溢れていたらしい、涙でかすんだ目で最後に見たのはアメジストの瞳。
「忘れるんだ」
その声にほだされるように、序々に思考にも霞がかかり、かわりに快楽で塗りつぶされる。

「あぁ…ッ…!」

そうして、俺は意識を手放した。いつものように。

*

自らの手で殺めた弟の骸は、どこを探しても見つからなかった。
何の跡も残さずに、まるで煙と化してしまったかのように。
「ルージュ…」
思わず顔を歪めると、ヌサカーンは問うた。
「これが、君の望んだ結末だろう?何を悲しむ?」
宿敵である片割れは死に、君は晴れてキングダムの求める完璧な術士となった。
これ以上、何を望む?
彼の眼が囁く。

「そうだ…俺は、全ての力を手に入れた…」

力なく呟く。
実際、全ての力を手に入れたというのに、この虚脱感は何だろう。
手に入れたというよりむしろ、全てを失ったような感覚だ。
「ヌサカーン、俺は本当に、手に入れたのだろうか?」
「そうだよ」
わかりきったことを、とでもいうようにヌサカーンは軽く答えた。
「何なら、使ってみればいいじゃないか。もう、どんな術だって君の思いのままだろう?」
「…そうだな」
ゆっくりと右手を突き出すと、指先に微かに紅い光が灯る。
直後、見る者の目だけでなく身体をも刺し貫くような鋭い光が満ちる。
そしてその右手を挙げたまま、今度は左手を前にだす。
先ほどとは反対に、手のひらは黒く染められ、光を失ってゆく。
一瞬の間を置いて、黒い影とも光ともつかぬ球が現れ、近くにあったものを手当たりしだいに呑み込んでいった。

「ほら、ね」
確かに君は今、対極であるはずの力を得ているじゃあないか…さもそう言いたげに、ヌサカーンは微笑んだ。
「ああ…俺は、全てを手に入れたんだな」

頭の奥底の、疼くような痛み。
きっとこれは、俺の中のルージュの力が悲鳴をあげているのだろう。
まさに、俺が力を手に入れた証じゃあないか。

*

一度、このいかれた医者にこぼしたことがある。
「…負けたほうが、幸せだったかもしれない」
と。ヌサカーンはにや、と笑った。
そして、こともなげに言う。
「弟殺しの罪は、そんなに重い?」
苦悩する俺をあざ笑うように。
ゆっくりと頬に伸ばされた手を、俺は払うこともできず、ただ硬直して受け入れるしかなかった。
そのままぐいと引かれ、鼻先に彼の吐息を感じる。
アメジストの瞳にのまれてしまいそうなほど、近くに。

「地獄に堕ちても贖えないくらい?」

俺の答えなんかもうわかりきっているのに…残酷な問いかけだった。
「君の苦しむ顔はたまらないな」
ヌサカーンは本心を見透かせない顔に、あえて本心を覗かせてまた、笑った。

不意に唇を重ねられ、温かい舌が絡められる。
身体は快楽を感じているのに、心は何も想わない。
俺は、空っぽの器なのだろうか…?
ヌサカーンは俺の考えを見透かしたように、空の器に熱を注ぎ込む。
また、夜が繰り返す。

崩れ去った王国。美しい地獄。
――造られた双子。
どんな化け物よりも、どんな惨状よりも、俺を震え上がらせたのはあの処理室だった。
元々は一人だったのだから、ルージュが消えたのも、単にあるべき姿に戻っただけのこと…何度必死に言い聞かせてみても、震えはとまらなかった。
裸の身体が異様に寒くて、目の前の胸に縋りつく。
「地獄なんて」
あの処理室とくらべれば、何も恐ろしいことなんてない。
ヌサカーンは継げなかった言葉を察したように、再び笑った。
彼の、少し温度の低い手が首筋に触れ、心地よかった。
冷たい手。ゆっくりとした鼓動。
生命力の希薄なこの身体に、あまりにも慣れすぎて、たまにどこまでが自分なのか、境界がわからなくなる。
君の全てが欲しいな、と戯れのように囁くのならば、本当に全てを奪ってくれればいいのに。
あなたと一つにして、俺を消し去って。
そうすれば、この苦しみも、憎しみも、きっとなくなるのに。

「君はあの揺りかごがそんなに憎いのか…?」
「憎い…」
ルージュを殺めたあの日から、生きたくない、と思い続けて生きている。
罪を背負うのが怖いんじゃない。
ただ、生きていくことの意味がわからなくなった。そして、生きているのが怖くなった。
けれど、俺の中に入り込んだルージュの力は俺を生かし続ける。

…僕が生きるべきだったのに。

力が訴えかけてくる。
必死に生きる人々はまるで、その声を肯定しているようで、たまらなく、嫌だった。

俺たちは元々、一人だったんだ――ルージュの力が流れ込んできた時に、湧き上がるように生まれた思い。
そして次に生まれたのが…一人はどちらだったのか、という問い。
問いはやがて、確信にかわる。
俺はルージュの影だった…俺はルージュの糧となるべく生まれたのに…。
どうしてあの時、俺は生きたいと思ってしまったのだろう。
どうして生き残ってしまったのだろう。
…あの処理室…揺りかごさえなければ、俺は生まれずに済んだのに。

「何を考えているんだい?」
視界の端で、金と黒の髪が絡み合って広がっているのが見えた。
絡み合っても、とけあうことはないように。
鮮やかなコントラストが浮かび上がる。
「また…余計なことを考えて」
ふふ、とヌサカーンは笑う。
先刻の自分の問いなど忘れてしまったかのように。
「また、空っぽにして欲しいのかい?」
ヌサカーンは俺の答えなど待つつもりはないらしく、また、唇を重ねてくる。
霞がかかって、何も考えられなくなって…一瞬、全てを忘れ、とけあってしまったかのように錯覚する。

「でもね、君を私のものにするのはやめにしたよ。


私は、苦しむ君が好きなんだ。君が壊れていくところが、見たい。


ねえブルー…憶えてる?君の、弟を」


C O M M E N T
エ ロ と 超 絶 暗 い ブ ル ー が 書 き た か っ た だ け

…ごめんなさい。でもまた多分性懲りもなくやります。
あと今回のテーマその3くらいはいやに優しいドSヌサです。

ブルーとルージュが元々双子だったのは知っているのですが、ブルーはそんなこと知りようがないので、いつまでも悶々と考え続けた挙句自己完結して病ってゆくと妄想。ついでにヌサの瞳が紫というのも妄想…。
ブルーの一人称、ソトヅラは私だけど内向きは俺ですよね…?←自信なさげ

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