旅の始まり

「参ったな…」
ネーベルスタンはフォーゲラングの宿に到着するや否や、そうぼやかずにはいられなかった。
危険は十分承知の上だったし、また、それに耐えうる力が自分にはあると信じていた。
実際、たいした事故も怪我もなく、ここまで辿り着くことができたのだから、上出来だというべきかもしれない。

だが、そうだとしても、ぼやかずにはいられないのだ。
彼が挑戦しているのは、岩荒野の往復、なのだ。
来てしまった以上、戻らなければならない。

気候の厳しさもさることながら、更に性質が悪いのは、岩荒野に巣食うモンスター達だった。
巨大なホーンバファロー、チームを組み、連携プレイで襲い掛かってくる無数の蟻達…思い出すだけでうんざりだ。

「…そんなこと、今から考えてどうするんだっ」

ネーベルスタンは自分に言い聞かせるように呟いた。
倒れ込んだ安宿のベッドは、少しかび臭い気がした。

…このままずっと、ここに居続けることができたなら、どれだけ楽だろう。

そう思い、ネーベルスタンは深くため息を着いた。
それこそ、自業自得というものだろう。
どうしてこんな無謀なことを、と考えれば考えるほど、悲観的になってゆく。

このままうだうだ悩んでいても仕方ないじゃないか、と理論は再び堂々巡り。
明日の事は明日だ。
ネーベルスタンは半ば、強引に思考を切り替えると、固く目を瞑る。
まもなく、彼は引きずり込まれるように深い眠りへとおちていった…。

*

「ふざ…るなっ!!」
どうやら階下からきこえてくるらしい、微かな怒鳴り声にネーベルスタンは目をさました。
声とともに、壁を蹴飛ばしたような、大きなドォンという音。
壁からは心なしか、パラパラと埃が舞ったような気がする。
揉め事だろうか。
確か、下は酒場だったか…と、恐る恐る下へおりると、ヴィジランツらしい柄の悪い男が数人と、明らかに術士とわかる少女が言い争っているのが目に入った。
「ちょっとくらい付き合ってくれても良いじゃねぇかよ、つれねぇなぁ?」
相当酔っ払っているらしい男は、乱暴に彼女の腕を捕まえては放さない。
術士はあからさまに眉をひそめたが、男は全くお構いなしで、彼女の腕を握り締めたまま、ワインをボトルごと煽る。

冷たすぎる気もするが、相当な美人だった。
つん、とした表情に、肩にかかる金髪がとてもよく似合っている。

…止めない訳には、いかないな。

表向きは面倒くさそうに、だが内心は少し…ほんの少しだが嬉しく重いながら、ネーベルスタンは男と術士に近づいた。
「なぁー、そんな邪険にすんなよ、ねえちゃん」
男は黄色く薄汚れた歯をむき出しにして、にやにやと下卑た笑みを浮かべた。

「…はぁ?」
術士は小さく不満そうな声を漏らした。
何かを押し殺したような、ハスキーボイス。
術士は、俯いたまま続けた。

「貴様、今、自分が何を言ったのか、わかっているのか…?」

直後、ネーベルスタンは何かがブチリ、とちぎれる音を聞いたような気がした。
ほぼ同時に、膨大な量のアニマが解き放たれ、まるで大きな渦をまくように流れはじめる。
アニマの流れの中心にいるのは、紛れも無くあの金髪の術士だ。
「ひィッ」
明らかに空気が変わったのを感じ取り、たかっていた男達は慌てて後ずさるが、時既に遅し。
掴んでいた筈の腕を、逆にがっしりと掴みかえされ、微動だにできないようだ。
「…殺すのはまずいな…」
術士はぐるりと周囲をみわたすと、薄い唇の端に微かに笑みを浮かべた。
美しい、だが間違いなく危険な笑みを。

「何すんだよ、ゆ、許してくれ、なァ!」
じたばたともがく男を一瞥すると、術士は何も答えずに、酷薄な笑みを浮かべたまま小さく呪文を唱えた。

「…ブッシュファイア」

「うあぁっ!!!」
紅蓮の竜がのたうつ。
男の悲鳴を聞いた直後、その爆風に煽られ、ネーベルスタンはなす術なく思い切り壁に叩きつけられた。
「…っつ…」

背中から肺に響くような衝撃に小さく呻き、恐る恐る目を開くと、何もかもまるでひっくり返されてしまったかのように、目茶苦茶に吹き飛ばされているのが目に入った。
ネーベルスタンはズキズキと痛む後頭部をさすりながら、慎重に立ち上がった。

渦の中心にいた男達は、どうやら直撃を喰らってしまったようで、ピクリとさえ動かない。
まあ、彼女も殺しはしないと宣言していたから、生きてはいるのだろう。
気絶しているだけかもしれない。
当然の報いだ、と一瞥すると、ネーベルスタンは術士へと歩み寄った。
あれだけの爆風の中心にいたのだ、いくら自分が放った術とはいえ、怪我があってもおかしくはない。

「大丈夫ですか、お嬢さん」
病的といてもいい程、真っ白な肌にはかすり傷一つ見受けられなかったが、術士は何も答えない。
「具合でも、悪いんですか?」
強大な術をつかうには、それなりの力が必要となる。
とりわけ、その力を制御するには膨大な術力、そしてそれ以上の精神力を要する。
ごく希にだが、気力を使い果たし、口さえきけなくなってしまう者もいる。

…もしかしたら、彼女も…?
ネーベルスタンは不安にかられ、そっと術士の肩に手を触れた。

「私に触れるな!」

術士は乱暴に彼の手を払いのけると、顔をあげた。
えぐるようにねめつける視線が痛い。
双眸に埋め込まれた、燃えるような紅が美しかった。
術士は、ふと思い立ったように、ぼそりと呟く。
小さい、けれどもその残酷な言葉を隠すには、余りにも明瞭な声で。

「焼殺」

言い終わるのとほぼ同時に、燃え立つような深紅の魔法陣がくっきりと浮かび上がった。
気づいた時には、遅かった。
足元の魔法陣は炎を吹き上げ、その直撃を受けた彼の視界は、黒くフェードアウトしていった…。

*

「大丈夫ですか?」
ネーベルスタンは薄ぼんやりする頭と、体中に走る激痛と格闘しながら、必死に上体を起こした。
「ッ…」
余りの苦痛に、思わず、表情が歪む。
「ああ、無理はしないでください…当分、動ける状態ではないのですから」

そこで、ようやく彼は自分がどういう状況にあるのかを知った。
どうやら、看病らしきことをされているらしい。
だが、なぜ。そして、ここはどこ。今、目の前にいるのは、誰。
彼の疑問を見透かしたように、男は温厚そうな微笑を湛えたまま言った。
「私はシルマール、術士です。私の連れがご迷惑をおかけしました」
相違って、ゆっくりと後ろを振り仰ぐ。
視線の先には書物に没頭している、もう一人の術士の姿があった。
忘れようもない、あの、金髪の。

「…あ…」
思わず声を漏らすと、少し遅れて、術士も面倒くさそうに顔をあげる。
白く、細い形の良い指が、まるで金糸のような髪の毛をはらった。
その下からのぞく瞳は、やはり、血を溶かし込んだような見事な紅。
術士はその大きな瞳の端にネーベルスタンの姿をみとめると、明らかに不快そうに眉をよせた。
「先生、こいつは何です?」
「下で倒れていたのですよ。何故倒れていたかはナルセス君、貴方自身が一番よくわかっているでしょう?彼に何か言うことはないのですか?」

「…いいえ?ただ、私はこんな奴と相部屋はまっぴらですから」
シルマールは呆れ果てた、というように一つ大きなため息をついた。
「…ならば、貴方が出て行きなさい。外で頭でも冷やしてきたらどうです」
ナルセスと呼ばれた術士の頬に、少しだけ赤みがさした気がした。
「失礼しますっ」
彼は乱暴にそう言い放つと、半ば叩き付けるように本を置き、踵を返した。
バタン、と荒々しい音を立ててドアが閉められる。

「全く…」
シルマールはナルセスの放り投げた書物をひろいあげると、再び大きなため息をついた。
「あーあ、破れてるじゃないですか…この本も、貴重なものなのですけれどねえ…」
何気なく、ネーベルスタンは表紙へ目向ける。
赤茶色のすすけた表紙に、金押しの文字が踊っている。
"アニマの分離−死を超える−"
…妖しげな宗教の匂いが、プンプンする。
分離なんぞしても、自分のアニマに憑かれ、グールになるのがオチじゃあないか。

「シルマールさん、一つだけお伺いしてもよろしいですか?あの方は、何故あんなに怒って…?」
今の彼にとっては、不死の命を得る術などより、よっぽど関心のあることだった。

「そうですね…先ず、何からお話しましょうか」
シルマールは傍におかれたランプに手をかざすと、小さな灯を燈した。
時は夕暮れ、太陽は山際から僅かにその姿を見せるのみだった。
「では最初に、なぜ貴方がここにいるのか、ということを説明しましょう。簡単に言ってしまえば、下の喧嘩騒ぎの巻き添えを喰ったんですよ。そして、倒れていた貴方を私が拾ってきた」
「…はぁ、でも、私は何故吹き飛ばされる羽目になったのでしょう…?」
「え?運が悪かったのですよ、きっと」
シルマールは何故わざわざそんなことを訊くのかわからない、という顔をして、とりあえず答えを返した。
ネーベルスタンは彼の怪訝そうな眼差しに気づき、慌ててつけ加えた。

「実は、巻き添えを喰らった、という訳ではないんです」

「…と、いうと…もしかして、その後また何か…?」
シルマールの表情がくもる。

「ええ」
ネーベルスタンが頷くと、彼は特大のため息をついた。
「…本当に、なんてことを…!何をされたか、憶えては…?」
シルマールは力無く尋ねた。
まるで、既に返答など知れている、というように。

「しょうさつ、といったのが聞こえて…それきりです」

「…え?今何…焼殺、って言いました…?」
シルマールは信じられない、というように目を丸くして尋ねた。
「ええ、確か…」
「はぁ、貴方も大したものですね。本当、よく生きていられましたねえ」
感心しているのだか、呆れているのだかの区別が難しい嘆息を彼は漏らした。
そして、彼の受けた『焼殺』という術がいかに危険で、ナルセス、とやらは火術のスペシャリストだということをひとしきり説明すると、再びネーベルスタンの頑丈さを褒めた。

「はぁ、そんなに凄い術だったんですか。でも、そうなると、余計不思議なんです。彼女、私のことを怒って…?」
全く憶えがないので、とネーベルスタンは付け加えた。
「ああー…仕方ないといったら仕方のないことなのかもしれませんねえ…」
シルマールは妙に納得したように言うと、苦笑を浮かべた。
「…彼女、じゃあないんですよ。ナルセス君、れっきとした男ですから」
「…え?」
「だから、男」
「…となると?」
「身体も、心も、君と同じ、男ですよ。…やっぱり、カン違いしてましたか。彼、しょっちゅう勘違いされて嫌な目にあっているので、間違えられると激昂するんです」
「…嘘、だ」
本当に、本当に信じられない。
どこからどうみても、全く男には見えない…というより、極上の美女にしか見えなかったのだ。
…もしかして、この術士は嘘をついているのではないか?
あの美貌だ、危なっかしくて、見ている方はたまらないだろう。
それこそ、男だということにしておいたほうが、よっぽど楽な筈だ。
とはいったって、もう少しましな嘘はつけないのだろうか?

ネーベルスタンがまず何から訊ねよう、と考えていると、今度は逆にシルマールが訊き返してきた。
「どうして嘘なんかつく必要があるんです?」
「…え?だって…とてもそうは見えません。危なっかしくて仕方ないから、そういうことにしているんでしょう?」
シルマールは暫く黙って俯いていたが、ついにこらえきれなくなったのか、クスクスと小さな笑いを漏らした。

「危なっかしい?彼が、ですか?私としては、彼がいつまた貴方のような犠牲者をだすんじゃあないかと…そっちの方が心配ですけれどね」
まだ笑いが込み上げてくるらしく、シルマールは小さく肩を震わせている。

「今夜にでも、よーく見てみたらどうですか?ナルセス君、一度寝付くと滅多なことでは起きませんから、多少触っても大丈夫ですよ」

聞き捨てならないシルマールの言葉に、ネーベルスタンは目を丸くした。
「えっ?ええ?さ…触る…って!?いいいんですか!?」
自分の女を他の男に触らせるなどという話…い、いいのか?
そんなネーベルスタンの心中を察したのか、シルマールは微かに苦笑をうかべて言った。

「彼は私のものでも何でもありませんよ。狙ってはいますけれど、ね」
…ということは、まだ自分にもチャンスはある、ということか…!
がぜん、やる気の出てきたネーベルスタンは、痛みも忘れて飛び起きた。
そう、痛みとともに、幾度となく言われた"彼は男だ"という言葉も忘れて。

恋は盲目、とはこのことを言うのだろう。


C O M M E N T
出会い捏造編。続きます。きっと…!
発掘したプロットに沿って書いたはいいものの、ここまでしかないってどうなんだ、役に立たないな自分…!
ということで、いきあたりばったりなので、完結したら褒めてください(笑)

本当はライバルでお互いいがみ合っているうちに、隣にいるのが当たり前になって…という展開がいいなー。
本編の将軍の思い出、のベルナルのやりとりは神だと思うよ…!どれだけときめいたことか!

シルマール先生が黒く出来たのは満足です。
ネーベルスタンがお行儀良すぎたと思います。アホさは十分すぎました。
…でも本編中でアホ、っていう描写ほっとんどないですよね…暗黙の了解は何なんだ(笑)

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